10話目「放下著」の中でお伝えしましたように、部屋は人を表す、と言います

 

それは、その人の心を表すものであり、また、その人が歩んでいる、また、将来歩もうとしている人生を表すものだとも思います

 

また、14話目「お金を払ってでもする価値のあること」の中でお伝えしたように、4S(よんえす:整理整頓、清掃、清潔)を実行することは、自身の心、魂を浄(きよ)め、磨く行為でもあります

 

そして、それらは人が生きる上での核心をついた言葉であろう、17話目「威義即仏法(いいぎそくぶっぽう) 作法是宗旨(さほうこれしゅうし)」のタイトルの仏教語につながるものだと思います

 

と、少し今までの内容を振り返った上で、今回は掃除についてお話をさせていただきます

 

お釈迦様のお弟子さんの1人に、とても出来の悪い方がいました
もの覚えが悪く、自分の名前を時折忘れてしまうこともありました

そのお弟子さんは、自分は愚かなので仏門をやめたいとお釈迦様に言いました

 

しかし、お釈迦様は「自分を愚かだと言う者は、愚かではない。自分を賢いと思っている者ほど、愚かなのだ」と諭(さと)し

そして、そのお弟子さんに、お釈迦様は「掃除」をひたすらに行うように言いました

 

何十年も掃除を続け、そのお弟子さんは、ついに悟りを開きました
お寺では、掃除を修行の基本としています

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私が長崎の僧堂に居た頃、役寮(やくりょう:幹部)の方に、
「お寺では、掃除を修行として日々務めていますが、それは何故でしょうか?」と問うたところ、

 

「それは人のためだよ。つまり、お寺を訪れる人が気持ち良く訪れることができるように。勿論、自分の心を綺麗にすることも大事だけど、そっちの方が先だよ」と答えられました

 

また、仏教語に

「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」

とあります

 

お寺では、例えテーブルが綺麗でも、布巾で拭き、床が綺麗でも雑巾掛けをします

 

つまり、「百尺~」とは、例え悟りを開いたとしても、そこからさらに一歩を進める心が大事だという、自己を高める上での訓示としての仏教語であります

 

掃除をすることは、自分のためでもあるが、人のためでもある

ただ、自分よりも先ず人のことを考える「利他」を行じることでもある

つまりは、世のため人のためを行じる実践のひとつである、とも言えると思います

 

そして、掃除は自分を高める行いでもあり、自分を高めることは、周りにいる人達のためにもなります

 

そして、自分の身の周りの環境は、その人自身を表します。
掃除とは殊に奥が深いものだと考えさせられます

 

私自身としては、「掃除が趣味」と言えるようになることが目標でもあります

 

そして、「掃除が趣味と言える人」は、「人間の鑑(かがみ)」とも言えるのではないか、私はそう思います

 

あなたが掃除を行う時、それはお金では替えがたいような沢山のものを、あなたにもたらしてくれるはずです

 

そして、掃除とは、お金を払ってでもする価値のあることの代表のようなものなのでしょう

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