近年、聞くだけで胸を痛めるようなニュースを度々耳にします

また、あまり表沙汰にはなりませんが、自殺者が週に500人以上(自殺未遂者はその数倍)いる我が国の現状を思います

 

今回は、この「どこかおかしい」日本に対して批判を込めて、また、助言を込めてお伝えします

 

現在、我が国では、先ず民衆のトップたる政治家のモラルを疑う場面がよく見受けられます

 

昔のどこかの国では、政治家は首相クラスになるほど給料が安かったそうです

 

例えば、中国の三国志で有名なあの諸葛亮孔明などは、とても実力のある軍師であるにもかかわらず、奉禄(ほうろく:現在の給料)は僅かなものであり、与えられた土地も自分の田畑程度、また、本人の楽しみは家族との農業の一時であったそうです

そして、そこに私は人としてのモラルが見える気が致します
政治家を目指すのは一向に構いませんが、その最初の動機に名欲、利欲、即ち、名誉やお金を得たいという私利私欲が絡んでくると、その最初の一歩から足を踏み外してしまうでしょう

 

先ずは、自分のことよりも他人のことを思う、利他(りた)の心を持つことが肝要であり、そうして、世のため人のために生きるという方針が大切になってきます

 

尚、利他の逆は自利であり、仏教では、利他を行ずることは、自分のためになる、と幾度となく説かれます

この利他は布施(ふせ)とも言われ、道元禅師様によれば、「利行は一法なり、普(あまね)く自他を利するなり」と説かれています

 

ただ、モラルが薄れていると感じるのは政治家だけではなく、一般大衆に対しても言えるようです

 

昔と今では、何が変わったか?それは、ズバリ、宗教心を失くしたことが言えるでしょう

 

私も少し以前までは人々が宗教心を失くしたことはさほど問題ではないと思っていたのですが15話目「お地蔵様に手を合わせる心」の中でふと一言「宗教心が大事などとお伝えしたいわけではありません」と漏らしたように)、発展途上国の人々を見る時、その人々はとても幸せそうな笑顔をしている

 

貧しい国であるはずの子供達も、我が国の子供達よりも幸せそうな笑顔をしている

 

それは何故かというと、その人々は宗教心を日頃から持ち、日々神様仏様に感謝の念を忘れていない

 

そして、神様仏様からご加護をいただいていると信じる心を持っている
私はハッと冷や水を浴びせられるような危機感を感じました

 

宗教の本来の意味とは、人々が幸せに日々の生活を送ることにあります

昨今世界で騒がれている(昔もですが)、宗教戦争をその宗教の開祖の方はどのように見ているでしょうか?おそらく、只々胸を痛めていることでしょう

 

特に、仏教においては他派を批判しないことが仏教でありました

お互いにお互いの良いところを見付け、尊重し合う

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とある新興宗教などは他派を批判することを旨としているようです

 

私はたまたま実家が禅宗の曹洞宗であったわけで、他派の、特に浄土真宗の「南無阿弥陀仏」とお唱えすれば浄土に行けるというのは、私達日本人にとてもしっくりくるものだと感じています

 

尚、あまり詳しくは知らないのですが、浄土真宗の開祖、親鸞上人(しんらんしょうにん)様は、自著「歎異抄(たんにしょう)」の中で、悪人ほど仏に救われると説かれています

おそらくは、悪人と呼ばれる人も仏から見れば、育った環境などが不運だったのであり、可哀想な者と映る、ということではないでしょうか(間違っていたらすみません)

 

ただ、他派を批判しないことに、私は仏教の美しさを見れる気が致します

 

また、明治維新によって、お寺も結婚できるようになり、世襲、即ち、子が親の跡を継ぐというスタイルが根付いたようです

 

ただ、これにより、お寺が絶えることはなくなったかもしれませんが、道心、即ち、本当に仏法を求める心を持ってお坊さんになる方がどれほどいるか、ということを思わずにいられません

 

元々、お坊さんの意である世捨て人とは、(私が僧堂に居た頃、周りの修行僧と話をしていて)、自殺未遂をした人が割合的にとても多かったことから、一度人生を捨てた人のことであり、また、心の救いを求めて、仏道を歩むことを決意した、その決意の強さから、この世との縁を切って、何もかもを捨てて出家した者のことであり、それがつまりは世捨て人と呼ばれる由縁でもあるように思います

 

尚、寺族の方と違って、在家から出家した方は、僧堂を出た後は行き場所がない、というとても現実的な問題を現代の仏教界は抱えています

それは何としても改善してゆくべき点なのですが、私には何ができるのか…

 

また、現代のお寺は何かお金を求めているような気も致します

勿論、みんながみんなではないですが、どうもそういう方が多いような気が致します

 

葬式仏教と言われて久しいようですが、本来の仏教とは亡き人のためではなく、生きる人のための教えであります

 

元々、人というのは不器用なものであり、仏教という教えがその不器用さを解いてくれるものであります
古えの時代の先哲達の叡智(えいち)の結晶とも言えるであろう仏教というものを考えるとき、また、世界の古代文明の偉大さを思う時、古代の人々の方がいかに情緒や心が優れていたかと感じます

 

特に昔のお坊さんなどは現代人が及ばないような崇高な存在であったように思えます

 

現代の心の氾濫には、宗教家に大きな責任があるのは、疑いようのない事実です

 

人々の暮らしが豊かになるにつれ、人々は宗教から離れてゆき、そして不器用になってゆく感は否めません

 

ただ、朝は神様仏様にお願いをして、夕には神様仏様に感謝をする(多くの人々はお願いだけをするようです)

そうした日々の心掛けが、人生を、心を豊かにしてゆくのでしょう

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