人は、他人などに対して不満を持ち、批判や否定をしがちなものです。

しかし、そもそもが、「人は、不完全な存在」という視点に立てば、物事はつじつまが合うものです。

世に見る犯罪者なども、その多くがなにかしらの事情を抱えており、その背景や経緯を知れば、なるほどそういうことだったのかと(同情はすべきか否かは別として)納得できることも多々あるものです。

それは学校でのいじめなども同様で、いじめる側にはそのほとんどが家庭などで問題を抱えており、また、家庭内暴力、虐待は、そもそもが職場で問題を抱えていることが多いものです。皮肉なことは、その矛先がより弱きものへ向かうことなのでしょう。

それはひとえに、社会において多くの人が人はこうあるべきという観念を持ち、それを他人にも当てはめ、それにそぐわない者は排除しようとする、「寛容さのなさ」に起因するのでしょう。現代において多様性の大切さが説かれていますが、寛容な社会とは、みんな違ってそれでいいという多様性を認めることでもありましょう。

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常識とは、国や時代、文化や民族が違えばそれぞれであり、どれが常識とも言えないものです。

つまり、それぞれがそれぞれに価値観を持っていて、それでいいということ。

また、人を批判や否定をする人もいますが、自身が他人の批判や否定をできるほどの人物と呼べる器なのかよく自問していただきたい。

この風の人においても、価値観を強制する趣旨は全くないことは改めてお伝えしておきます。しかし、こう物事を考えてはどうかという「提案」はさせていただきたいと思います。

そして、人は不完全な存在であるから、完璧を求めても(人間だから失敗もするし)仕方がないことです。

そして、「人は、不完全な存在。不完全だから、そこがいい」とも言えます。人の弱さも見えるし、成長しようとする姿も見える。試行錯誤をして、より幸せになろうとする姿も見える。

人の不完全さを認めることで、物事はつじつまが合うし、人に対しても寛容になれる。

あなたはあなたのままで、あなたらしく生きられる社会を願っています。

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