神仏に祈る。
現代においては、宗教は少し煙たがられる、またはいぶかられるものとなった感があります。それにはいくつか原因もあり、少し前のの出来事では、オウム真理教のサリン事件が記憶にも新しいのではないでしょうか。また、科学が発達し、人々が霊などを信じず、目に見えるものを信じる傾向が出てきたことも一因でしょう。そもそも、西洋科学は神性なるものを排除し、理論と計算と実証に重きを置いてきました。
とは言え、宗教は人々の生活に不要かというと、それは否、でしょう。
宗教とは大元の教えであり、そこには様々な教義、つまりどう生きるか、ということが説かれています。
しかし、どんな教義があるにしろ、宗教の本質としてあるものは、「祈る」ことだと私は見ています。
キリスト教では、食事の際にお祈りをし、ミサに出掛けてはお祈りをする。イスラム教においてもお祈りをする。仏教においても、例えばお寺で供養の読経をすることは、お祈りをしているに等しい。
つまり、お祈りをすることは、神仏からの御加護を祈ることとも言えます。
禅宗の一派、曹洞宗においても、その大本山永平寺は、「祈りの里」と例えられることがままあります。
ここでひとつ議題があるすれば、神仏、または霊性なるものは存在するのかということ。
確かに霊性なる存在は目に見えません。しかし、私個人のこれまでの実体験でも霊性なる存在は確かに存在すると感じますし、知人の臨死体験の三途の川での体験などを聞くに、やはり存在するとしか言いようがありません。あなたもあなた自身や周りの知人の体験などから、そう確信に至る面もあるのではないでしょうか。
つまり、目に見えねども、霊界は存在するのでしょう。この世が陰と陽からなるのであれば、現世が陽で、霊界が陰として。
同じく、昔からの言い伝えなどからも、神仏も存在するのでしょう。
戦時中などの険しい時代には、人々は神仏に祈る習慣がありました。しかし、人々の暮らしがある程度豊かになると、人々は神仏から遠ざかってしまう、それが現代なのでしょう。
身近では、よくお婆さんなどが頂き物を仏壇にお供えしてから頂いていたのを私自身も覚えています。
神仏への祈りは、現代に生きる私達が失くした感性ではありますが、不要というわけではありません。
海外では現代においても神仏に祈る習慣が残っています。日本ではその習慣が遠ざかってしまった。その点を私はとても危惧しています。
朝、出掛ける時に、「良い1日になりますように」と祈るだけで心持ちも随分軽やかになります。夜には「ありがとうございました」とお礼を述べる。
怪しいとか云々ではなく、安心を与えてくれる、それが宗教というものです。
そして、神仏という人間よりも遥かに大きな存在を感じることで、そこに畏怖(いふ)が生じ、その畏怖により人は謙虚になる。それによりモラルや社会通念から逸脱した行動はとりづらくなる。それは「善」への契機となる。私はそう見ています。
そして、自身の幸せを祈ることと共に、他者の幸せも祈る心を持って歩んでいければ、それもひとつの人たる姿だと感じます。
心豊かな日々とは、そういう日々でもあるのかもしれません。
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