仏教では六道輪廻(ろくどうりんね)という教えがあります。
六道は、地獄道(罪を罰する世界)、餓鬼道(食にありつけない世界)、畜生道(弱肉強食の世界)、修羅道(争いの絶えない世界)、人間道(私達の住む世界)、天上道(苦しみ少なき世界)からなり、生きとし生ける者は、六道において転生を繰り返す、とされています。なお、仏教では、この六道輪廻からの解脱を最終的な悟りとします。
今回は、この中の餓鬼道についてお話しします。
餓鬼道について、次のような話があります。
餓鬼道に堕ちた者達が、目の前に食事を与えられた。餓鬼達は、はしを使って食べるように言われるが、そのはしが自分の口に運ぶには長すぎるはしであった。そこで、餓鬼達はどうやって食べようかと考え、やがてはしを使って横にいる者に食べ物を与え、また自身は横にいる者から食べ物を与えられた。
これは私達の身にあてはめると、どういうことなのか。
この話は、誰でも自分がかわいいものですが、他人のことを想うことの大切さ、を説いています。それが和平の道ということです。
仏教においては、自身を苦しめる要素に三毒という悪業があるとし、三毒とは、貪・瞋・痴(とんじんち)をさします。
貪は貪(むさぼ)り、瞋は怒り、痴は愚かさの意です。
私は、それぞれが、我愛、我執、我見に起因するものとみています。
我愛は、自身をかわいいと思うこと 、我執は、自身に執(と)らわれること、我見は、自身からの視点からしか物事を見ぬこと、と私なりに充てています。
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要するに、三毒から離れるには、自身への囚われから離れるのが良い、他(ひと)のことを想う方が良い、ということ。
夜回り先生という名で知られる水谷修先生は、『自分のことよりも他(ひと)のことを考えている方が楽である』、とおっしゃっています。
それは安楽へと至るひとつの悟りではないかと思います。
また、日々、ニュースが報道されていますが、それを他人事ではなく我が事として受け止める感性の大切さを思います。そのニュースの多くは、自身にいつ起こってもおかしくないものなのでしょうから。
世界とは、確かに広いものです。そして、そこで様々な命が活動しています。
視点を、自分のことよりも、世界、この国、あなたが住む地域、周りの人、命に向けてみましょう。
餓鬼道の話は、自分に囚われることの危うさを説いています。
そして、他人事を我が事として受け止めれる人ほど、有徳の人であり、心が豊かな人だと言えるのでしょう。
105才で亡くなられた医師の日野原重明先生は生前に、『ひとのために使った時間が多いか、自分のために使った時間が多いか。前者である人は、神様に天国へと導かれる』、と語っています。それは生きている間でも、現世が天国となる道なのでしょう。
他(ひと)の幸せを願ってこそ、人。
なんとかファーストと言った言葉が世間を取り巻いていますが、それらは必ずやがて行き詰まるし、そんな時代だからこそ、伝えたい。
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