古えの時代にはよく使われ、一方、最近はあまり使われなくなった言葉に、「憐れ」があると感じます

 

「憐れ」のひとつの用法には、美しいものを見たときの感嘆句があります

 

美しい夕焼けを見た時に、「憐れ」というように

喜びと共に、どこか悲しさや憂いを感じさせる表現です

 

また、この「憐れ」は、現代社会においても絶えないイジメの問題にも使えると思います

 

即ち、イジメはイジメる側、イジメられる側、双方共に「憐れ」である、と

 

イジメる側には、情けないという「憐れ」、イジメられる側には、可哀想という「憐れ」

 

イジメは、若年層ほど見受けられるように、人間性の未熟さ故に起こる悲しい現象だと私は見ているのですが、「憐れ」と思うことで、双方共に同情に似た念で見ることが出来るのでは、と思います

 

又、人が嫌がる言動をする人に対しても、「憐れ」と思うことで、自分が同じレベルに下がらずに、あくまで上から見ることが大事だと思います

また、これにより不思議と心が平静でいられると感じます

尚、この場合は、情けないの「憐れ」の方でしょう

 

また、衆生のような純粋な存在を見る時には、可愛いの「憐れ」が当てはまると思います

 

そして、虫一匹、花一輪の一生にもドラマがあることを忘れずにいたいものです

 

この「憐れ」という表現の万能性をよくよく見る時、古来の日本人の感性の豊かさに驚かされます

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また、同時に称賛の念がやみません

 

あなたの日々にも、この「憐れ」という目で見ることで、また違った景色に見ることができる場面があると思います

 

それは、一種の仏の境地でもあるはずです

 

なお、仏教語に「慈悲」とあります

物事を憐れみ(悲)、慈しむ(慈)という意です

それは、私なりに少し言い換えれば、ひとの痛みを分かち、ひとに幸せをもたらす、という意になると思います

 

観音経(かんのんぎょう)というお経の中に「悲観及慈観(ひかんぎゅうじかん)」とあり、これは「真観(しんかん)」「清浄観(しょうじょうかん)」「広大智慧観(こうだいちえかん)」とともに「五観」と称され、これは「観音菩薩観」と言われています

 

ただ、私がお伝えしたいことは、ひとの痛みを分かち、ひとに幸せをもたらすことを目標として生きることはひとつの菩薩行であり、それが菩薩観を育むことになるということ

 

そして、「憐れ」、「慈悲」の目で物事を観ることは、「菩薩」の目で物事を観ることのきっかけでもあり、そうして仏への階段を一段一段のぼってゆけるのでは、と思います

 

今日も、この世の中には、悩み苦しみの中にいる人達がいます

生死の境に立っているような、深い苦しみの中にいる人もいることでしよう

 

そんな人達を想う時、別の自分が問うてきます

 

「君は、自分さえ幸せならそれで良いのか?」、と

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