木枯らしの
吹き荒(すさ)ぶ中
陽(ひ)を求め
往けど歩めど
道、遥かなり
ふと覚める
己(おの)が来た道
振り返り
陽は足元に
ありつ来たると
ふと自分の環境を見つめた時、この霊長類の人間として生まれたこの身であっても、やはり(私自身が未熟なのもあって)悩み苦しみがつきまとい、それは寒風吹き荒ぶが如く苦がつきまとう
その苦とは単(ひとえ)に、何かを求めるが、それが手に入らない、または、例え理想を掲げたとしても、自分の思うようにはならない、そこから生まれる葛藤であろう
しかし、仏教の先哲達が説くように、「よく足元を見る」時、自身が既に幸せの中にいることに気付かされた
そのような思いをこの句に込めました
この句に挙げた陽とは、浄土のことであり、禅宗では悟りを開けばこの世が浄土となる、と説いています
そして、その浄土への道のりは、西遊記のモデルとなった三蔵法師玄奘(げんじょう)が遥か西方のインドへ法を求めて行ったように、とても遠いところにあるように感じるものです
しかし、外へ外へ、遠くへ遠くへと浄土を求めても、浄土へはたどり着けない
そして、自身の足元をよく見た時に、自身が既に浄土にいることに気付く
これを禅語で「春は枝頭(しとう)にあって已(すで)に十分」と言います
以前、この風の人の中でも少しお話した禅語です
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「あなたは幸せになりたいですか?」という問いに多くの方は「はい」と答え、中には「(富を得るなどして)絶対に幸せになってやる」と意気込んでいる方もいらっしゃることでしょう
しかし、もしあなたが五体満足で生まれ、目が見え、耳が聞こえ、手足を動かせ、そして、愛する人や大切な人の存在があり、帰れる家があり、また、学べる環境、働ける環境があるならば、それは本当の幸せと言えるのではないのでしょうか?
つまり、「浄土は既にあなたの心の中にある」ということ
あなたの意識次第である、ということ
そして、禅宗が宗旨とする坐禅は静寂を感じることに意義があるようで、先哲達は静寂を感じ得(う)る心の余裕の大切さを説いています
そして、静寂を感じることが出来るとき、そこに幸せを感じることが出来た時、その心には平安が訪れ、そこが浄土となる、と
神様仏様を信じ、そのご加護に感謝する者は、心を救われる
しかし、地位や名誉やお金を信じる者は、足元を掬(すく)われる
そこを仏教は突いています
とは言うものの、私自身も未熟な身であり、現世が浄土と言えるようになるには、まだ道は遠いようです
そして、その浄土へと至るには、自分に厳しくする、掃除をよく行うように努めるなど、他にも様々な要素が絡んでくるようで
人生とは中々難しいものだと痛感しています
ただ、あなたが「幸せになりたい」と思う時は、先ず、よく足元を見るべきである、そこを以て今回の話のまとめとさせていただきます
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