これは仏道修行をする際の肝心要(かなめ)の所を突いた先哲の言葉です

 

世間一般の方々は、お寺の修行とは坐禅や読経をすることと思われているかも知れませ

 

しかし、お寺、特に、修行を志したる者が集まり最初に入る僧堂という所は、修行をする場ではあるのですが、本当の所は「修行の仕方」を学ぶ場であります

 

その修行の仕方を学んだ上で、僧堂を出た後に、日々の生活の中で実践としての修行を積んでゆく

 

修行の仕方とは、作法等に始まり、仏教に対する知識、坐禅、読経等をする意義への知識、修行をする際の心構え、等その他諸々です

 

そして、修行とは、その修行の仕方を知った上で日常の生活を自己を高める修行として過ごせるようになることを本義としています

 

「修行は日常底にあり」、とは、「修行は日常の中にある」ということ

 

歯磨きにしても洗面にしても食事にしても掃除にしても入浴にしても、日常のひとつひとつの行いを疎かにしないように努めること

 

坐禅や読経も確かに大切かも知れません

が、しかし、坐禅や読経のデキよりも、そういう日々の行いをキチンと務めることこそが人としてのあるべき姿だと思います

 

そして、「修行は日常底にあり」、とは、一般社会の中においても充分(過ぎるほど)仏道修行は出来る、ということです

 

修行とは、何も特別な行いのことを指すのでありません

 

曹洞宗のお経を唱えた後に唱える回向文(えこうもん)の中に、次のような一節があります

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「真空の妙智、即ち眼前(げんぜん)することを得ん」

 

真空の妙智とは、悟りを開くきっかけとなる智恵、そして、その妙智とは、既に私達の目の前にいつだって存在している、とこの節では説いています

 

そして、「修行は日常底にあり」とは、日常の日々の営みの中にこそ悟りを開くキッカケがあるということ

 

また、日々の営みを疎かにしないところが仏道修行者のあるべき姿だということ

 

ともすれば、平凡な日々を懸命に有意義に過ごせた時、それが成道(じょうどう)であり、その人を覚者(かくしゃ)と呼ぶのかも知れません。

 

また、悟りとは、現代語風に言えば、「気付き」とも言え、それは目を凝らして観れば日常の中に溢れているものなのでしょう

また、「小悟(しょうご)もあれば、大悟(だいご)もあり」、と言うように、小さな気付き、大きな気付きもあります

 

そして、その日常の小さな気付きを積み重ねるうちに、時々大きな気付きを得れるのではないか、と私は思います

 

悟りとは、そんなに堅苦しい難しい概念でない

 

そして、悟りを開くキッカケとは、そう遠くにあるものではない
それを知っているかいないかで、日々の生活の輝きも変わってくるものです
先ずは、日常の営みを疎かにしないこと

 

あなたが日常の営みのひとつひとつを大切に行じるとき、その日々の生活は輝きを増すことでしょう

 

「修行は日常底にあり」、私自身も改めて胸に刻みたいと誓うところであります

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