今回は、空という、仏教概念についてお話し致します。

空、というと、般若心経中で繰り返し説かれる言葉であり、仏教思想を色濃く表したもです。

般若心経に説かれていることを、平たく簡潔に言えば、それは「全ては空である」ということ。

だとして、空とは何か、となりますが、それは「実体ないもとよく説かれます。

不変不滅はなく、物事は移ろいゆく。それはそれ、と固定されるもはない。

例えば、食べ物を見て、食べたいと思うとします。しかし、お腹が一杯時は食べる気がしない、というも。それが、こ場合は食べたいという感覚には実体がない、と言えます。つまり、感覚には実体がない。

他に例えれば、柳枝が揺れているを見て、楽しげに見える時もあれば、悲しげに見える時もある。つまり、捉える側により、捉え方は異なる。

他に例えれば、幼い少年は、やがて老いゆき、やがて死す。つまり、不変不滅はなく、物事は移ろいゆく。

他に例えれば、リンゴを食べ物を見るもいれば、住みかとする昆虫もいる。それはそれ、と固定されることはない。

挙げればキリがありません。

…というが、一般的な空捉え方であり、仏教教えとは、そようなとりとめもないことに囚われぬようにしましょう、ということであるようです。

今回は、空について、少し見方を変えてお話し致します。

結論から先に言えば、私見解では、「空」とは「ありがたい」こと、とも解釈できないだろうか、ということ(あくまでひとつえ方として参考にしていただければと思います)。

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だとすると、般若心経色即是空とは、色(というもが存在すること、また、色という感覚が分かる)とはありがたいことである、と。

諸法空相とは、こ理とはありがたいことである、と。

是故空中、無色無受想行識は、ありがたいという視点に立てば、色、受想行識を超越する(ここでは、無を超越するとしています)。

部分は割愛しますが、これは仏教が説く悉有仏性(しつうぶっしょう:あらゆるもに仏性質がある)にも通ずる、とも感じます。

…とまぁ、お話ししましたが、今回はこういう見方もできるではないかという、つまり、ひとつ考え方、視点提起ですね。ただし、あくまで私考えだということは改めてことわっておきます。

そもそも、今回内容は、空気って、ありがたいもでは?、という私自身思いがキッカケでした。

空気に付随して言えば、他にも、存在していないように見えるけれども、存在している、などという発想も生まれるで、そこから魂や霊存在などを考えてみるも面白いかも知れませんね。

勿論、お釈迦様が意図して説いた空という概念は、「物事には実体がない」ということなでしょう。

ただ、よく言われるように、
「常識とされているもを、『疑う』こと」
も大事なでしょう。

そこから新たな発見も生まれるでしょう。

あなたにはあなたらしい、私には私らしい価値観を持つ、そ自由な多様性が尊いことだと思います。

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